彼は東洋のグリザイユだ
''Shindo" has been the framboised-grisaille in the orient..
親族所有物件の賃貸管理、物故作家進藤蕃の商号管理をしています。
griscoloryという社名は、持ち前の色彩感覚とグリザイユ技法を掛け合わせた祖父、進藤蕃の作風にちなんで命名しました。
進藤蕃 (しんどうばん、昭和7年(1933) ~平成10年(1998) 66才没)
東京都出身。
1956年 東京藝術大学美術学部油画科小磯教室を首席卒業、大橋賞受賞。
1957年 グループ黒土会結成に参加。
1960年 フランス政府給費留学生として渡仏。
エコール・デ・ボザール(仏国立美術学校)でモーリス・ブリアンションに師事。
サロン・ナショナル・デ・ボザール展、サロン・アンデパンダン展などに出品。
1967年 中根寛、小松崎邦雄らと濤々会を結成。
1974年 黎の会結成。
1976年 三井物産大手町新社屋の貴賓室・会長室・社長室のフレスコ天井画完成。
1977年 具象現代展を結成し、同人となる。
1982年 国際形象展の同人となる
1983年 個展開催(パリ・グランパレ美術館、同84年)
1998年 逝去(65歳)
先輩進藤蕃に学ぶ
中村清治
世田谷のアトリエ
2001年4月初旬、久しぶりに進藤さんのお宅へ伺った。亡くなって三年が過ぎようとしていた。この日アトリエの中では、この画集を出すための準備が奥様他何人かの人で行われていた。私も何か手伝えたらと思ってそこに加わった。例えば作品の制作年の分からないものをなんとか特定する仕事等であるが、はっきり言って私はあまり役にたゝなかった。学生時代から亡くなる迄の中から画集のために選んだものだけでも作品の写真は1000点をこえていた。写真ではあるが50年に及ぶ画業をこのように通して見ることが出来、その仕事ぶりに感動し、奥様が出して下さったお茶を飲みながら写真をながめるばかりで何をしに来たのか分らぬま時は過ぎてしまった。
1970年の或る日、橋本博英君が私を進藤さんに紹介するから一緒に行こうということで、はじめて世田谷のアトリエへ伺うことになった。この年私は中学の教師をやめ何とか絵描きの生活をスタートさせたいと思っていた。小田急線下北沢駅から、今は多勢の若者でにぎわう商店街をぬけて代沢のお宅まで、その道のりはゆっくり歩いても十五分程であろうか。橋本君の後を付いて歩き乍ら私の胸の中は不安と希望が入り交りどきどきしていた。
進藤さんのお宅に着いて、あれっと思った。二階にあるアトリエの入口が一階の玄関とは別にあって屋外の階段を使って入るようになっていた。敢えて住と峻別して造ったその仕事場の様相は画家の砦とでも言いたくなるような趣であった。アトリエには先客が居た。あるデパートの美術部の人二人である。
今思えば絵画ブームと言われる時期に入っていたのだった。留学から帰って数年が過ぎ自分の絵の方向が定って自信に満ち精力的に制作し又発表しはじめた頃で見るからに颯爽としていた。この時が進藤さんと初対面といってい程私は先輩との交流は全くなく孤立状態であったがこの日をきっかけに絵かきの仲間に入れてもらったと言ってもいゝのであるその後この世田谷の家は建て直され瀟洒な建物に生れ変った。以前のそれは私の瞼の中になつかしいアトリエとして残っている。
「屠殺場」「魚市場」からパリへ
1960年9月進藤さんはフランス政府給費留学生としてパリへ渡り、エコール・デ・ボザールのプリアンションの教室で勉強し、1962年の末帰国した。翌年滞欧作の個展を開くという
文字通り選ばれた人のコースを進んでいる。そしてその後数年で自分の絵の方向に確かな手ごたえを感じたのであろう。次々と新鮮で魅力的な作品を発表するのである。しかし留学の前の二つの大作も進藤さんを知るうえで見逃せないものだと思う。芸大時代からの師である小磯先生がその時期、働く男達の群像を連作のように描いていたので、あるいはその影響もあったと思う。それにしても進藤さんの絵の題材は衝撃的であり又劇的だ。流石だと思うのは激しさのあふれるような題材であり感情が先行せず形体は明確であり建築的な画面を作っていることである。画家の出発点とも言えるこの力作は師からも評価されたに違いなく、大きな自信となってその後の、のびのびとした制作を支えたのであろう。パリの留学生活に入り、作品の様相は一変する。極端に環境が変わった事やプリアンションの指導などが進藤さんの心を強く動かしたと思える。題材、表現ともに確かに変わった。渡仏前の二作品はその題材を日常生活の外にある激しい動きの世界に求めているのに対し、1960年から61年に掛けての仕事は屋内の人物等が多くなっていて、表現も柔軟になった。巾広の刷毛の様な筆を使い大きな面を作り、時にはおつゆ状の絵具を画面から流れ落ちるように使ったりしていて、当時はやっていたアンフォルメル絵画の影響も感じさせるが、これらの作品には曇り日の情感とでも言うような雰囲気があり佳品となっている。後年進藤さんは、絵と言うものは、アンチームな方向の中にあるのではないか、と言う発言をしている。日常の中に垣間見る、はっとする美しさや造形的な面白さをとらえてゆくことこそが進藤さんのこの時期以後の仕事の主体となっていったと思う。
一つのことをやればいい
先輩の中でも進藤さんは実質的な、と言うかいろいろ教えてくれる有難い先輩だった。私が何も知らないままはじめてパリへ行った時もそうであった。たまたまその頃パリに滞在していた進藤さんは自分の運転する車でオルリー空港迄来てくれた。私の予約しておいたホテルまで連れて行ってくれた後「先ずは地下鉄だ」と言って切符売場へ行って回数券の買い方や乗り方を教えてくれた。その外、絵具屋の場所、買物の仕方、ちょっとした生活の心得等を襲った。
やがてグループ展〈黎の会〉が発足し絵かき仲間としておつき合いが続くがいつも私は聞き手であり教えてもらうことばかりであった。その頃の進藤さんの示唆に富んだ言葉に
私は啓発され学生時代以上に勉強した様に思う。その言葉の中の一つが「一つのことをやればいい」である。これは見えたものを満遍なく描いていてはいけない。自分の心をとらえた一つの要素を見極めること、そして多くを捨て一つにしぼる。こう言う意味であろう。留学から帰ってからの進藤さんの仕事を見るとどれを取ってもこの方向で貫かれている。この中から消えていない。私自身の制作では進藤さんの言葉通り忠実に実行は出来なかったが、この言葉はいつも頭理屈は見えないように
進藤さんは色彩家であった。留学から帰国して以後最後までこのことは変わることはなかった。人は色彩家と聞くとすぐ、それは天性のものだと言う。それもあるだろうが進藤さんの色の扱いを見ていると、色感の良さだけではないことが分る。色彩学を自在に駆使していると言うか、進藤さんの色の扱いは色彩学そのものなのだ。基本的には寒暖対比と明暗対比であるが、補色対比、同時対比、面積対比、全てを将に神技の如く使っていることで進藤さんは言うのである「色彩学に限らず理論は見えてはいけない。理屈が見えたのでは種明しされた手品のようで味気ないものだ」と。ギリシャ以来の比例による画面の分割等においても、こっそり見えない様に楽しんで実践しているのである。
過程を見せる
伊東にアトリエを建て、そこでの制作がはじまった。1977年のことである。題材が変わり、阿蘇山や桜島等日本の風景に取り組んだ。「過程を見せていく、と思えばいいんだ」この言葉を聞いたのはその頃だと思う。これは一つの作品の制作過程を見せる、と言う意味ではない。一つの作品、或いはその時期の作品を絵かきの長い道程の中の一つの試みとしてとらえるべきだ、と進藤さんは言うのである。この言葉は前述の、一つの事をやればいいと言う言葉の焼き直しとも言えるが、この意識を強くはっきりと持っていたことが進藤さんの絵のスタイルを生んでいる。留学以後の仕事を通して見ると油絵の基本とも言える、明とのコンポジションでスタートし、光と影を色に置きかえてゆく印象派以来の方法で次々と題材を変えて多くの作品を成功させている。
画面を垂直に大きく光と影に二分し寒色系の影の中に小さい面積の暖色を入れ、光の当った広い面の中には小さい面積の黒や影を置いている「広場の立像」1973年(図版22)と題する絵等は典形的な進藤流試みである。1980年代後半には、これに装飾性が加わってきて、1990年代に入ると明と暗、光と影という組立てから離れたような仕事になっていった。
病気
1985年大きな病気が進藤さんを襲った。手術後、病室を訪ねると、「はじめて君を偉いと思ったよ。」といきなり言う。私は若い頃から何度も入院し手術を受けているので、その事を進藤さんは言ったのだと思うが健康と体力に自信のあった人だけにその言葉は精神的ショックがいかに大きかったかを物語っていた。多くの絵かき仲間が心配していたが、一年程で進藤さんは元気を取り戻し仕事も蘇った。以前と同じ筆力で多くの作品を描いた。その中で大きな変化と思えるのは、1990年代はじめの頃の「寓話」と題する一連の作品である。前に試みた影を取り去り装飾性を強く意識した仕事の第二段階とも云えるが、今迄あまり見なかった動物の置物、能面などが登場する。これは今までの基本から飛躍したようで私には少々謎めいて見えた。その後又以前に戻る傾向があり一体どうなるのか知りたかったが1998年、再度の病で画家進藤蕃の持ち時間は尽きてしまった。日本にヨーロッパの絵の歴史をよく知っている絵かきは多くいるだろうが、油絵の伝統とその展開をこれ程自分のものとして明快に実践した人を進藤さんの他に私は知らないのである。